素粒子物理学のミライ:素粒子物理学はいま大きな転換点を迎えている。
2012年7月に発見されたヒッグス粒子は、「パンドラの箱」を開けた。質量の起源とされるこの粒子は、20世紀後半に確立された「標準理論」を完成させる最後のピースになるはずだったが、発見された粒子は、標準理論だけでは説明できない性質を備えていた。標準理論の完成度は高い。だが、その限界もかねてから指摘されてきた。
「たとえば、私たちの身の回りにある“物質”は、宇宙の5 %ほどしか占めていません。残りの約95 %は、私たちがまだその正体を知らない『暗黒物質』と『暗黒エネルギー』です。また、標準理論では重力を説明することもできません。これらを説明可能な、標準理論を包含する上位の新物理が存在するはずです。その証拠を、実験を通じてつかむこと。新物理の探索が、これからの素粒子物理学の大きなテーマです」と浅井センター長は語る。
新物理の候補としては複数のモデルが提唱され、それぞれが未知の新粒子の存在を予言する。いずれの粒子も、これまで見つかった粒子よりも重い。アインシュタインの有名な方程式「E=mc2」が示すように、エネルギー(E)と質量(m)すなわち粒子は等価だ。粒子からエネルギーが生まれ、エネルギーから粒子が生まれる。前者の例が、核分裂反応や、太陽のような恒星で起こる核融合反応だ。質量が失われるときにエネルギーが発生する。一方、エネルギーから粒子を生み出すのが加速器だ。粒子を加速させて高いエネルギーで衝突させると、その衝突エネルギーから重い粒子が生成される。新物理の証拠となる新粒子の探索には、高エネルギー加速器が必要になるのだ。
新物理探索に向けては、ヒッグス粒子発見の舞台となったCERN(欧州合同原子核研究機構)が今後も大きな役割を担っていく。ここに、世界最高の衝突エネルギーを誇る円形加速器LHC(大型ハドロン衝突型加速器)があるからだ。LHCは全周約27 km。新粒子探索には高いエネルギーが必要で、そのため加速器も巨大になる。
「ヒッグス粒子発見後も、LHCでの実験は続いています。2015年から2018年末までは、衝突エネルギーを増強させて第2期実験(Run2)を行ないました。2019年現在は、Run2の衝突データの解析とともに、2021年からの第3期実験(Run3)に向けてアップグレード作業が進んでいます」
CERNでは、「その先」を見据えた計画も進行中だ。まず2026年を目標に、LHCはHL-LHC(高輝度LHC)へと生まれ変わる。輝度(ルミノシティ)とは、粒子どうしの衝突の起こりやすさを示す加速器の性能指標だ。これをLHCの当初設計値の5倍に高め、得られる衝突データの総量をRun3までの総量の10倍にまで増大させる。それにより、新粒子探索が進むと期待される。HL-LHCは、2040年ごろまで断続的に運転が予定されている。
- a2018年6月HL-LHCに向けた工事が始まった。
- b中央は、CERN所長のファビオラ・ジャノッティ氏。フランス・スイス当局者らと工事着工を記念してタイムカプセルを埋めた。©CERN
- cHL-LHCで予想される陽子・陽子衝突のシミュレーション。©CERN
さらに、HL-LHCの次を見据えた動きもある。LHCの約4倍、全長100 kmの円形加速器FCC(未来型円形衝突型加速器)だ。衝突エネルギーはLHCの10倍近くを目指す。2040年ごろの運転開始を目標に、国際的な議論が進んでいる。
「FCCの目的は大きく2つあります。ひとつは暗黒物質の正体をつかむこと。もうひとつは、その過程で“超対称性”をとらえることです。暗黒物質は、超対称性粒子のうち、電荷を持たない軽い粒子がその有力候補と考えられています」
“超対称性”とは、標準理論で提唱された17の粒子に、それぞれパートナー粒子の存在を予言する理論だ。いくつかのモデルが提唱され、粒子の予想質量に幅はあるが、新粒子はまだ発見されていない。
- dCERNのLHC(左の小さな円)と、新たに建設構想が進むFCC(右の大きな円)の俯瞰図。©CERN
- eFCCの完成イメージ。©CERN
- fFCCで予想される陽子・陽子衝突のシミュレーション。©CERN
「超対称性が理論として正しければ、FCCで必ず超対称性粒子が見つかるはずです。別の言い方をすれば、FCCで超対称性粒子が見つからなければ、超対称性は理論として誤っていたということ。それはそれで大きな“発見”です。実験が既存の理論を覆し、新たな理論を考える根拠になる。それは物理学の歴史そのものです。20世紀の物理学の最大の成果である相対性理論や量子力学は、20世紀前半の10年、20年というわずかな期間で確立されました。それと同じように、素粒子物理学はこれから激動の時代を進むことになるでしょう」
- g標準理論の素粒子と超対称性粒子。
HL-LHCとFCCのほかにも、高エネルギー加速器の構想はある。全長20 kmもの線形加速器ILC(国際リニアコライダー)がそれだ。2030年ごろの稼働を目指して国際的な議論が進み、日本が有力候補地となっている。
「ILCの一番の狙いは、ヒッグス粒子の詳細な性質を調べることです。ILCは、素粒子である電子とその反粒子である陽電子を衝突させる線形(リニア)の加速器です。それが、複合粒子の陽子どうしを衝突させる円形加速器との大きな違いです。素粒子どうしを衝突させ、見たい事象をクリアに見る。それによりヒッグスの詳細な性質を明らかにして、新物理の手掛かりをつかむ。ILCは、HL-LHCとFCCの間をつなぐとともに、加速器の特性からも両者を補完する関係にあるのです」
- hILCの全景図。地下100m以上の深さにトンネルを掘る。©Rey.Hori
- iILCの構成模式図。©Rey.Hori
- jILCの加速器を構成するクライオモジュール。©Rey.Hori
新物理探索に向けて、高エネルギー実験とは別のアプローチの実験も進行中だ。センターの研究者が主導するMEG実験は、標準理論で起こりえない事象の観測を目指す。電荷を持つ単体粒子であるμ粒子は、新物理の理論モデルにおいて、ごく稀に電子とγ線に崩壊すると予測される。2013年に第1期実験を終え、観測感度を高めた第2期実験が2020年に始まる計画だ。新物理探索の王道は高エネルギー加速器実験だが、研究者たちは総力戦で新物理の開拓に挑んでいる。
- kMEG II実験のμ→eγ崩壊の発生シミュレーション。©MEG Collaboration
- l13056本のワイヤーで構成されたドリフトチェンバーの内層。©MEG Collaboration
- m制作していたイタリアからPSIに移送し、検出器インストール前の状態。©MEG Collaboration
「未知の世界を切り拓くには、新しい技術も必要です。LHCでは大型の超伝導磁石を大量に使用していて、超伝導の実用例としては最大規模です。それには日本の技術も大きく貢献しています。また、FCCでは高温超伝導の導入が検討されています。高温超伝導では極低温への冷却が不要になり、大幅な省エネが期待されます。さらに、技術発展に伴い、解析するデータ量も増大しています。ビッグデータを効率的に解析する機械学習や、計算速度を劇的に向上させる量子コンピュータを、物理解析に導入する研究も進んでいます」
最先端技術が物理学の新たな扉を開く重要な手段となり、物理実験が、最先端技術を大きく前進させる重要なモデルケースとなる。21世紀、素粒子物理学は「総合科学」として、新たな知と新たな技術をともに切り拓いていくのだ。